鹿児島市 さこだ歯科 院長紹介

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院長 迫田 敏 プロフィール

歯科医師になろうと決めた理由

生まれは京都市です。叔父の産科でした。
酸欠で死産だったそうですが、運良く生還したそうです。

僕が小児期、小児喘息に苦しんだ時期があるんです。
東京目黒に住んでいました。高度成長期の真っ只中、連日光化学スモッグが発生していたのでしょう。

職場に行く父親の手に引かれて幼稚園に行く道のりでよく車を眺めてました。
車や乗り物が好きでした。確か路面電車やトロリーバスも走ってました。

これが見たくて幼稚園に行くのが楽しみだったのです。
この時排気ガスを吸いすぎたのでしょう。しっかり小児喘息を患うようになりました。

外で遊んだ日にしっかり喘息の発作がでるのです。
ただ、東山にあった医院に行くと喘息の発作がなくなるんです。

苦しい発作をなくしてくれるお医者さんはスーパーマンのように見えました。
僕もこんなに苦しい喘息の発作を止める人になるんだと心に誓ったのです。

そして、この頃から僕と同じ年代の子供を救うんだと思って小児科医になりたいと考えていました。

転勤が多い仕事をしていた父親に伴い、次は名古屋でした。小学校3年までいました。中日ドラゴンズの帽子をかぶって毎日草野球ばかりやっていました。

小学校の後半と中学の途中まで東京の高井戸でした。
小学校高学年はプールに通い、喘息の発作が少なくなってきました。
今度はジャイアンツの帽子をかぶって草野球にのめり込んでいました。

中学生の時に兄が医学部に入り、それが憧れのようにみえました。
好きだった野球はいつのまにかテニスに興味が移っていました。
しかし課外活動のテニス部には脱落し、目的もなく過ごしていました。

中学3年の2学期に金沢に転校しました。
金沢の高校受験では、東京の受験は内申書重視でほとんど受験勉強をしていなかったことや、試験が3教科の受験準備だったことで5教科しないといけないので苦しみました。

なんとか志望していた高校に入れましたが、冬は雪の多い地方。
冬は寒くて学校に行くのがつらかったです。

ただ、医師になりたいという情熱と親類に医師が多いのも影響があると思いますし、兄も医師になってましたので環境的には他の職業を考えることはありませんでした。
しかし高校時代は全く勉強をせず、努力すらしませんでしたので、当然、医学部なんて遠い存在。

なんとか医療系の仕事に興味だけはあったので歯学部という道を勧められました。

ここで調べました。

長崎大学の歯学部だけは僕の好きな科目だけが重視され、しかも、嫌いな科目が多くて困ったのですが、その嫌いな科目の配点が半分という、願ってもない素晴らしい大学でした。
この大学の歯学部は僕のためにある大学なんだと勝手に考えておりました。

なんとか長崎大学に入りたくて、浮気もせず長崎大学を受け続け、浪人をしましたがなんとか無事にその熱望していた長崎大学歯学部に入学できました。

入学してからは、教養時代と学部時代があり、教養は歯科というより一般教養の勉強が主体でした。

この頃ウィンドサーフィンにのめり込みました。
これは卒業までと鹿児島に来て2年ほどは続けました。

普通、夏のスポーツとお思いなるかと思うのですが、日本では冬の季節風が吹いているときが最高に楽しめるんです。

教養時代は勉強より海にいる時間が長かったです。
学部に入るとそれほど海にはいけなくなったったのですが、かなりのめり込んでいました。

専門過程に進学してからは勉強しました。
これは出会った先生の影響でした。

今は新潟大学の副学長で当時生理学講座の助教授だった山田先生の門下を仰ぎました
この先生の下で、いろいろと勉強しました。
医学の基礎のことばかりだけでなく、楽しく飲むこともですが。

そして研究生活の楽しさも教えて頂きました。
研究するということ、即ちサイエンスをすることというのはアメリカでするもんだよと教わり、アメリカ留学が夢になるようになりました。

高校時代と違って、勉強が面白くて専門知識の勉強をしました。
勉強するかウィンドサーフィンに行くかどちらかの生活でした。

医院設立まで

平成元年、長崎大学を卒業。

最初、基礎講座に残ろうと思ったのですが、緒事情もあり、臨床講座に残ることにしました。
鹿児島大学の歯科補綴学という講座に入局することとなったのでした。

大学を出て初めて両親が出身である鹿児島に住むことになりました。

まず鹿児島弁に慣れるのが大変でした。
実際、生活してみると両親がしゃべっていた生易しい鹿児島弁のレベルではなかったのでした。

患者さんが話している内容がイントネーションの違いや早口で聞き取れないし、初めて聞く入れ歯用語(例えば総入れ歯のことを鹿児島弁では”ガンブリ”っていうんです^^;)とか、前途多難な船出でした。

また医局では、臨床の勉強はかなりシゴかれました。
ある程度臨床の知識はついたと判断し(おこがましい話ですが)、卒後3年目頃より入局当時から興味のあった、骨の研究にどっぷり浸かっていくことになりました。

まる一日、研究のことばかり考える時間が増えていき、寝る間も惜しんで勉強したり、研究したりの生活を続けました。

その頃のエネルギー源には絶対アメリカでBONE CELL BIOLOGYをするんだと考えてました

平成4年に結婚しまして、ますます骨の研究にのめり込んでいきました。
アメリカに家内と一緒に行くんだみたいな。

大学医局時代に、いろいろな方と出会いがありました。
医学部に学内留学する機会を与えて頂きました。
当時臨床検査医学講座丸山征郎教授の教室です。

ここはきっとアメリカでいうサイエンスを行っているところなんだろうなといつも感じておりました。

医学部の臨床家・研究者だけでなく学部の垣根を超えた研究者が集い休みもなくラボは動いておりました。

現富山大学医学部教授の当時助教授の北島勲先生のもとで骨分子生物学を勉強できる機会を得ることとなったのです。

そこで出会った先生方にも影響を受けました。
それは、研究に対する思い、いろいろな病気に対する研究の考えなど、今の僕自身の治療や考えの礎になることでした。

ただ、僕自身のやっている研究が基礎研究の内容が色濃くなってました。

ある時期、この機会を失うとなかなか留学のチャンスがなくなるといった出来事があり、それに向けて全精力を注いで準備をし、教授にテキサス大学医学部内分泌学講座に留学する相談をしました。

しかし博士を取っていなかったのと、教室運営上で無理である返事を頂き、情熱をかけてきた研究生活に戻る気力を失せてしまいました。

大学を辞める決意をしました。
その当時、南国立中央病院の院長だった故櫻美先生と知り合う機会があり、当初は厚生省に入省しようと準備しておりました。

しかし、ちょうど、櫻美先生が持っておられるビルで誰か開業する人間はいないか募集されていました。

研究生活にドップリ浸かっていたので、開業なんて考えてもいなかったのですが、この話に飛びついてしまいました。

そのビルは、西鹿児島駅前で、しかも戦前からある古い商店街の入り口ビルの2Fという場所でした。

当時、西鹿児島駅入り口から距離のある場所でした。
研究生活をしていた年末に方向を全く変えてしまい、バタバタと開業準備に勤しみ翌年の平成8年5月に開業をしました。

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